今日は、「メンタリング」と「メンタルトレーニング」の違いについてお話しします。
「メンタリング」という言葉は人によって様々な解釈で使われているのが実情で、皆がパッと理解できる共通した定義が難しいのが現状です。
それ故にインターネットで調べても解説がまちまちで、なかなか本質が掴めない、よく分からないという人も多いのではないでしょうか。
ですので、あくまで私の捉え方ではありますが、本質に重きをおいてお話ししたいと思います。
少しでも実用の足しになれば幸いです。
メンタリングはトレーニングではない
「メンタリング」と「メンタルトレーニング」が似ていると感じるのは、おそらく「メンタ……」の部分に目が行ってしまうからではないでしょうか。
私はそうでした。
ここでは違うところに着目してみましょう。
「……トレーニング」の部分です。
ここに着目すると、違いが際立って見えてきます。
「メンタリング」の方には「……トレーニング」がついていません。
そうなんです。「メンタリング」はトレーニングではないのです。
「トレーニングかトレーニングでないか」に着目すると、今までのごちゃごちゃした景色から一歩抜け出すことができます。
ちなみに、「メンター(mentor)」と「メンタル(mental)」は全然違う単語です。
カタカナで表記すると似たような印象になりますが、「mentor=良き師、助言者/導く、助言する」と「mental=心の、精神の」で、意味も全然違っています。
「メンタリング」は動詞の「mentor=導く、助言する」に「~ing=すること」がついたもので、直訳すると「mentoring=導くこと、助言すること」という意味になります。
「トレーニング」とは?
「トレーニング」とは何でしょうか?
これは多くの人が日常でも使う言葉なので、辞書の意味というより日頃の感覚で考えてみましょう。
「トレーニングを受ける」という表現をした場合の意味合いは、「訓練を受ける」とか「指導をしてもらう」といった感じだと思います。
「マンツーマントレーニング」なら、「一対一で個別に指導をしてもらうこと」とイメージできます。
「トレーニングをする」という表現をした場合の意味合いは、「練習をする」とか「鍛える」といった感じでしょうか。
例えば「自主トレ」なら「(誰かに指導をしてもらうのではなく)自主的に体を鍛えたり、技術的な練習をしたりすること」とイメージできますし、「筋トレ」なら「筋肉を鍛える(筋力向上の)ために行う運動」と分かります。
辞書で意味を調べなくても、大体どんなことを言っているかは分かりますよね。
その流れで考えれば「メンタルトレーニング」は、「メンタル」という言葉が少々曖昧ではありますが、大体イメージできるのではないでしょうか。
「フィジカルトレーニング」とセットで考えてみましょう。
「フィジカルトレーニング」はフィジカル(=肉体的、身体的)のトレーニングですから、「体力向上のために行う運動」や「体力向上のための指導を受けること」となります。
これは先ほどの「筋トレ」のような無酸素運動に限らず、有酸素運動やストレッチなども含めたもので、筋肉の強化だけでなく、心肺機能の強化やケガのリスクを減らす効果など、身体全般の運動を指すものです。
「メンタルトレーニング」はメンタル(=精神的、心理的)のトレーニングですから、「心理的な回復をはかる練習」や「精神状態の安定を保つ訓練や指導」と解釈できます。
スポーツだけでなく、仕事や人間関係など生活全般で分野を問わず活用できるものですね。
「メンタリング」とは?
それでは「メンタリング」とは?
「メンタリング」はイメージも湧かないという人も多いと思いますので、少し掘り下げてお話しします。
私が考える「メンタリング」の根幹は、「自問」や「自律」を喚起・促進することです。
「当事者が自分で考え、自分で道を切り開いていく」きっかけになることや、それを促進する作用が「メンタリング」の核心だと考えています。
そう考えると、「メンタリング」は必ずしも対話や助言によって為されるとは限りません。
本の一節や音楽のワンフレーズ、映画のワンシーンで刺激を受けて、自分の体験がオーバーラップし、いろんな思いや考えが駆け巡ることもあると思います。
あるいは、尊敬できる人の物事に取り組む姿勢や生き様を目の当たりにして、自然と自律の本能が呼び起こされることもあるでしょう。
どんな形であれ、結果として「当事者が自分で考え、自分で道を切り開いていくこと」につながるのであれば、そのきっかけとなる存在は「メンター」と言えるでしょうし、それを喚起・促進する作用は「メンタリング」と言えるだろうと思います。
逆にどんな形で関わっていたとしても、「当事者が自分で考え、自分で道を切り開いていくこと」につながっていなかったり、むしろ妨げているなら、本質的には「メンタリング」でも「メンター」でもない気がします。
ちなみに私は、最初からそういう影響を期待して、例えばNHKの番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』を観たりしますが、それは自分から「自問」や「自律」の刺激を受けにいっている訳ですね。
自分としては、「メンタルトレーニング」をしている感覚ではないです。
メンタルの部分で参考になることもあると思いますが、メンタルだけにフォーカスして番組を観ている訳ではありませんし、トレーニング(練習や訓練、指導)とも違います。
あえて言うなら、「メンタル(=心理、精神面)」を強化しているというよりは、
「マインドセット(=価値観やものの見方、判断基準、心構えなど)」や
「パラダイム(=考え方の基本的な枠組み、思考の前提となる発想や世界観)」といった、
全ての判断や意思決定を左右する根っこの部分で刺激をもらいにいっている感じでしょうか。
思考の基盤となる価値観やものの見方、前提となる発想や世界観などを揺さぶられることで、普段よりも深い思考へと導かれるのだと思います。
(※ 「マインドセット」とは? /「パラダイム」とは?)
とは言いつつも、やはり観ている時には、「マインドセット」や「パラダイム」だけにフォーカスしている訳ではありません。
仕事のやり方やこだわり、生い立ちや経緯、今の仕事に就くことになった背景や動機、人生観や仕事観、苦しかった体験や今闘っていることなど、さまざまなものが掛け合わされてプロフェッショナルの方々が形成されていると思いますし、私自身もそういったもの丸ごとで刺激を受けて、自分の糧にしようとしているように思います。
相性もありますので毎回強く影響を受けるとは限りませんが、各回の様々なプロフェッショナルの方々が、私にとって「メンター」に当たります。
(※ 「メンター」とは?)
「自律」という言葉について
ここで少し、先ほどから出てくる「自律」という言葉に触れてみたいと思います。
「自律」とは、「他からの支配や制約を受けることなく、自分自身で立てた規範に従い行動すること」という意味です。
「律」には、「規律、規範、基準、おきて、決まり、法則」などの意味や、「則る」「手本として従う」「ある基準に照らして判断・処理する」などの意味がありますので、「自律」は「自分の基準に照らして、行動すること」となります。
ちなみに「自律」の反対は「他律」ですが、「他律」は「自分の基準や意志によらず、他からの力によって行動すること」です。
これは、他者の指示や命令、強制などで行動する場合だけでなく、周りの空気(同調圧力)に負けて行動したり、一般論や常識に囚われて行動したりすることも入るのではないかと思います。
「自律」よりも、今お話しした「他律」の方がイメージしやすければ、そういう状態ではないのが「自律」と考えてみてもよいかもしれません。
つまり、「周りの空気(同調圧力)に負けず自分の基準に則って行動したり、一般論や常識に囚われないで自分の指針に基づいて行動したりすること」を「自律」と捉える考え方です。
私自身、日々の実用においてはそう捉えています。
それは「自律をしよう」という意識より、「一般論や風潮に流されないようにしよう(=他律にならないようにしよう)」という意識の方が強いからかもしれません。
それもあって、私にとっての「メンタリング」には、「周りの空気(同調圧力)に負けて行動したり、一般論や常識に囚われて行動したりする自分に喝を入れる」というニュアンスも含んでいるように思います。
「自分の基準を形成する」には?
「自律」を実際に行うことを考えてみましょう。
先ほどの私の捉え方で、「周りの空気(同調圧力)に負けず自分の基準に則って行動したり、一般論や常識に囚われないで自分の指針に基づいて行動したりすること」というのは、口で言うのは簡単ですが、実際にやろうとしてみると簡単なことではないですね。
そのように行動するには、まず「自分の基準を持つ」というプロセスが必要になります。
そして、「自分の基準を持つ」というプロセスには、「自分で考える(自問する)」というプロセスが必要になります。
「自分で考える(自問する)」ことなく自然と「自分の基準」ができあがってきてくれたらありがたいですが、なかなかそう都合のよい展開にはなってくれないですよね。
やはり、それなりの時間やエネルギーを注いで、自分の中で考えを発酵させるプロセスが必要だと思います。
自分の考えを活発に発酵させるためには、私は個人的に、「刺激」と「余白」の両方が必要だと感じています。
私が『プロフェッショナル』という番組を観たり、映画を観たり、本を読んだりしながら一人で考える時間を大切にしているのは、そこに絶妙な「刺激」と「余白」があるからです。
例えば「余白」の少ない例として、講習を受けたり、アドバイスを受けたり、トレーニングを受けたりすることが挙げられます。
そういう時は、インプット、つまり情報を理解しようとしたり、技能を習得しようとしたりすることに、意識やエネルギーのほとんどが注がれます。
外からの「刺激」を処理するのに精一杯で、自分の考えを発酵させられるような「余白」はあまりありません。
一方、ドキュメンタリー番組や映画を観たり、本を読んだりしている時は、外から「刺激」を受けながらも自分の内側でいろんな思いが浮かんできたり、過去の体験が思い出されたり、言葉になっていなかった考えがまとまってきたりと、アウトプットの方も活発に行われます。
特に考えようとせず気軽に映画を観ているだけでも、考えるのに十分な「余白」が存在することで、自然と自分の思いが発酵されたり再発見できたりする訳です。
もし今のお話で通ずるものを感じるようでしたら、日常のどこかで「刺激」と「余白」の両方がある時間を持てるかどうかが、一つのポイントになるのではないでしょうか。
特にひと昔前と違って現在は、スマホをはじめとしたデジタルメディア社会で、アウトプットに必要な「余白」の時間が24時間体制で削がれてしまうので、自分とのアポイントのつもりで時間を確保することが大切かもしれません。
「自分の基準に照らして行動する」には?
次に、「(一般論や風潮と違っていても)自分自身で決めた基準に照らして行動すること」を考えます。
自分の基準が整理できていればそのように行動できるかと言えば、そんなに単純な話ではないと思います。
もしそうだったら、私でもできているはずです。
周りと違う行動をするというのは、孤独を受け入れる闘いも伴います。
迷いや葛藤が生まれたり、怯んでしまったりしても不思議ではありません。
もっと知識を増やせばできるとか、もっとメンタルを鍛えればできるとか、そういったものでもないと思います。
やはり、自律の本能を呼び起こしてくれるような人にたくさん触れること(=考え方やものの見方、思考の前提となる世界観を中心に、頭でなく体丸ごとで刺激を受けること)ではないでしょうか。
それはもちろん直接会える人だけでなく、先ほどの私の例のようにテレビや映画、本で触れることも含めてです。
そうやって心の深い部分を揺さぶられる人にたくさん触れることで、強く影響を受ける人(=自分に近い境遇や感覚を持った人)に出会う確率も上がりますし、コップに水が溜まるように静かな胆力(=自分の道筋に対する肯定感)も培われていくものだと思います。
「価値組」タイプの「中小企業」の「経営者」は…
ここまで、「メンタリング」や「自律」についてお話ししてきました。
少々掘り下げてお話ししてきたのは、「言葉」の意味の違いよりも伝えたい内容だったからです。
「価値組」タイプというのは「勝ち組」タイプと違って、「勝ち負け」よりも「(独自の)価値」を中心に判断や行動をした方が力を発揮しやすい人(組織)のことを指しています。
「勝ち負け」は共通尺度で測れますが、「(独自の)価値」は個々に違うものですから、おのずと独自の判断や行動をすることも増えてきます。
(※ 「価値組」とは?)
また「中小企業」は「大企業」と違って、一般に経営資源の制約も多く、理屈の上では推奨される選択肢を採用できないことも少なくありません。
そうすると、常にその時々の与えられた条件の中で、現実策を選択していく必要があります。
傍から見たら「なぜそんなことをしているのか?」、「なぜそんなこともしないのか?」と感じる選択を、あえてしなくてはならないことも多いでしょう。
そういった背景や制約条件の中で、「経営者」の皆さんは、「周りの空気(同調圧力)に負けず自分の基準に則って行動したり、一般論や常識に囚われないで自分の指針に基づいて行動したりすること」を、自分が率いる組織の中で率先してやっていかなくてはなりません。
そんな立場にあるこのブログの読者の皆さんにとって、「メンタリング」は関係の深いものだと私は感じていますので、一度こうやって掘り下げる機会があってもよいのではないかと思いました。
タイトルとしては「メンタリング」と「メンタルトレーニング」の違いになっていますが、「言葉」自体よりも、今日お話しした内容の中で少しでも実用の足しになるところがあれば幸いです。