「勝ち負け」や「優劣」の発想に染まりがちな社会の環境と、それによる不都合についてのお話です。
意図していなくても…
私たちは物事を、「勝ち負け」や「優劣」の尺度で捉える場面によく出くわします。
それは自分がそう捉えている場合だけでなく、自分以外の人が「勝ち負け」「優劣」で捉えている場面に数多く遭遇するからです。
多くの人が子供の頃から、「勝った」「負けた」「優っている」「劣っている」という意識、発想、価値基準を、知らず知らずのうちに植え付けられてきています。
また少し前までは、主要なメディアと言えばテレビや新聞、雑誌くらいでしたが、近年のインターネットやスマホの進化によってSNSやYouTubeなどが広く普及し、前にも増して影響を受ける社会になっています。
このような社会環境で常にスマホを持って生活している限り、身近な人だけでなく社会全体から影響を受けるため、意図していなくても「勝ち負け」「優劣」の発想に染まりがちです。
自分はどうだろうか?
さて、私たちが置かれている社会環境を少し眺めてみましたが、今度は自分自身を俯瞰してみてください。
自分も「勝ち負け」「優劣」の発想に強く染まっているように思いますか?
それとも、
それほど「勝ち負け」「優劣」の発想に染まっていないように思いますか?
漠然とした質問で、何とも言えないかもしれませんね。
少しつけ足して、もう一度考えてみてください。
仕事や経営で不都合があるほど、「勝ち負け」や「優劣」の発想に染まっているように思いますか?
それとも、
特に不都合が出るほどとは思いませんか?
この問いが今日のお話のキーポイントです。
「勝ち負け」や「優劣」の発想に染まっているかどうかより、それによって不都合が生じているかどうかが焦点です。
もし「勝ち負け」「優劣」の発想に染まっているとしても、特に不都合がないのであれば別に構わないでしょう。
一方、さほど染まっていないと感じていても、何か不都合を抱えているならば対策が必要です。
自分は、仕事や経営で不都合があるほど、「勝ち負け」や「優劣」の発想に染まっているか?
先の話へ進んで、最後にもう一度この観点で自問してみてください。
「自分目線」が強くなってしまう
「勝ち負け」や「優劣」の発想に染まると、どんな不都合があるのでしょうか?
直接的にはシンプルに、「価値組」タイプの人は、「勝ち負け」「優劣」の発想で仕事をするのが合っていないという問題があります。
モチベートされなかったり、抵抗を感じたりして、腰が重くなってしまうということです。
推進力の問題ですね。
(※ 「価値組」とは? )
今日は少し掘り下げて、間接的な問題にフォーカスしたいと思います。
知らず知らず「自分目線」が強くなってしまう問題です。
「自分目線」が強くなってしまうと、物事が意図していない方向に進んでいってしまいます。
「自分目線」とはどういうことでしょう?
「自分目線」とは、自分の位置から見える景色で物事を捉えたり、自分にとっての損得で物事を考えたりする状態のことです。
つまり、「自分目線」が強くなってしまうというのは、自分以外の人から見える景色を想像したり、自分以外の人の状況を推し量ったりすることに、意識が向かわなくなってしまうということです。
「勝ち負け」や「優劣」の発想が強くなると、気づかないうちに『自分も相手も第三者も、全体としても…』という俯瞰的な視座が薄れて、「自分の…」「自分にとって…」という視座に陥りやすくなります。
私生活でのことなら個人的な問題として、当事者がよければ済む話だと思います。
しかし仕事や経営でも不都合が出てくるのであれば、関わる人たちにも影響が及んできますので話は違ってきます。
「消費者目線」が希薄になると…
仕事や経営において、「自分目線」があること自体は問題ではありません。
「自分目線」で対処しなくてはならないことも、たくさんあると思われます。
しかし、それが強くなり過ぎることで、「消費者目線」や「社会目線」が薄れてしまうなら問題でしょう。
特に経営者の方は、「自分目線」と『全体観(俯瞰的な視座)』のバランスは重要です。
例えば、「自分目線」が強いと「商品やサービスの良し悪し」に終始しがちですが、消費者にとっては『商品やサービスを通した時間や体験のすべて』が関心かもしれません。
あるいは、「自分目線」が強いと「他社の商品やサービスとの優劣」を過度に主張しがちですが、消費者からすると「似たような商品やサービスの優劣」よりも、『優劣をつけるのが難しいような多様性』を求めているかもしれません。
「勝ち負け」や「優劣」というのは、基本的に共通の尺度で評価しないと決められないものです。
共通の尺度では測れないような特色の違うもの同士では、パッと「優劣」を決められるものではありません。
もちろんどちらの方が売れたとか、どちらの方が性能がいいとか、あえて共通尺度で「優劣」をつけることはできます。
しかし、そうやって「優劣」をつけている状態の時は、共通尺度に意識を奪われ、すでに「消費者目線」を見失いつつあるのかもしれません。
「自分目線」が強くなることは、消費者側から見えている景色を見失わせ、ともすれば他社と似かよった考え方や行動に引き寄せられてしまうという、価値組としては避けたいデメリットにもつながりそうです。
「従業員」への影響は?
経営者の方の場合、「自分目線」が強くなると、「消費者目線」や「社会目線」だけでなく、「従業員目線」も希薄になってしまいます。
「従業員目線」が希薄になると、組織運営での状況判断や意思決定のすべてに影響が出てきますが、ここでは具体的な一つ一つではなく、その根幹となる部分に着目したいと思います。
組織で働く人にとって、不満に思うことや納得できないことがあるというのは決して珍しいことではなく、仕事をしていればそういうこともあると受け止めている部分も大きいでしょう。
しかしその一方で、具体的な一つ一つの事柄を超えて、経営者に対する不信感や諦めのようなものが芽生えてくると、見過ごせない問題になってきます。
経営者が分かりやすく法に反しているとか、お金を私用に使っているとか、そういうことなら逆に一気に踏ん切りがついて、退職まで進めるのかもしれません。
あるいは、誰が見てもパワハラやセクハラだと断定できるようなことが日常的にあるなら、迷うこともきっと少ないでしょう。
しかし、そこまでのことではなく、一気に退職を考えるほどでない場合には、悶々とした状態で仕事を続けることになります。
従業員の皆さんは、人材募集の記事を見て、応募して、面接などを経て入社し、今働いています。
そのプロセスで、会社についてどんな風に説明を受け、経営者についてどんな考え方や価値基準を持った人だと受け止め、職場についてどんなイメージを持って入社してきているでしょうか?
仮に、「自分(自社)本位の経営者」「従業員に対する敬意や配慮の欠落」「理念やポリシーは形骸化」「会社の利益がすべて」…という実態の会社があったとしても、入社する前から何となく察していて、その上であえて入社した会社であれば、「やっぱり」とは感じても不信感にはつながらないでしょう。
一方、入社までのプロセスで、募集記事や面接を通して「理念がある会社」「社会の課題を解決する事業」「敬意を感じる職場」「関わる人すべての立場に配慮」…といった印象を持ち、従業員自身の優先順位としてもそういうものが重要だった場合には、実態が違っていたら当然ショックです。
さらに、入社後の仕事の場でも口では聞こえの良い事を言われながら、そうでない実態を日々目の当たりにしていたら、不信感はどんどん募っていくと思われます。
そういう状況に陥ってしまうと、具体的な一つ一つの事柄はもちろんですが、事あるごとに自分(従業員自身)の思いと会社の実情のギャップに反応してしまいます。
そうなると、実務的な事とは違う部分で常に多大なエネルギーを奪われてしまいますので、従業員個人としても組織としても、好ましい成果を期待することは難しくなります。
少し極端な例のように感じられるかもしれませんが、本当に真摯に取り組んでいる経営者の方でも、意外とこういうことが起こりがちです。
それほどモバイル社会の影響は大きく、気づかないうちに「勝ち負け」「優劣」の発想や「自分目線」が強くなり、『全体観(俯瞰的な視座)』が薄れてしまいます。
全体観(俯瞰的な視座)が薄れることを心得て
ここまでを簡単におさらいします。
- 「勝ち負け」「優劣」の発想に染まると、知らず知らず「自分目線」が強くなる
- 自分の位置から見える景色で物事を捉えたり、自分にとっての損得で物事を考える状態に陥ってしまう
- 自分以外の人から見える景色を想像したり、自分以外の人の状況を推し量ったりすることに、意識が向かわなくなる
- 仕事や経営にも影響が及んで、「消費者目線」「社会目線」「従業員目線」が希薄になってしまう
ここで注目すべき点は、
知らず知らず「自分目線」が強くなってしまい、知らず知らず『全体観(俯瞰的な視座)』が薄れてしまう
ということです。
私たちは身近な人たちや様々なメディアの影響によって、「戦略」「戦術」、「ノウハウ」「テクニック」、「数字」「効率」、「社会的評価」や「世間体」に意識を奪われがちです。
それらはすべて「自分目線」を刺激しています。
先ほどもお話ししましたが、もちろん「自分目線」自体はいけないものではありません。
しかし、「自分目線」が強くなることによって『全体観(俯瞰的な視座)』が著しく薄れ、見過ごせないほど悪影響、不都合が生じてしまうのであれば、何らかの対処が必要になってきます。
そして、それは当事者にしか見極められませんので、自分の日常を振り返り、自問するしかありません。
では、自分の日常を振り返って対処の必要性を感じた場合には、どんなことをすればよいのでしょうか?
最もシンプルなアプローチとしては、「自分目線」を助長するものを減らし、『全体観(俯瞰的な視座)』を補強するものを増やすことだと思います。
『なぜ』『何のために』『どんな人のために』『事業の背景』『そもそもの動機』『率直な想い』『社会的課題』『社会的意義』『供給が不足していること』『自分(自社)の社会的位置づけ』『消費者から期待されているポジション』…
こういった『自分の視座を上げるもの』について、あまり考えたり刺激を受けたりしていないのであれば、触れる機会を増やすというのが一番シンプルな対策でしょう。
それはテレビ番組でも、本でも、WEB上のサイトや動画でも、何でもよいと思いますし、身近にそういう刺激を受けられる人がいるなら、そういう人と場を共にするだけでかなり違うと思います。
ちなみに、私の言う『自分の視座を上げる』というのは、「熱い気持ちになれ」というメッセージではありません。
目的は『自分の視座が上がること(=俯瞰的、複眼的、多面的視座を持てること)』であって、「熱い気持ちになること」ではありませんので、平熱でできるのであれば熱くなる必要はありません。静かに落ち着いて『自分の視座を上げる』のが合っている方は、自分に合った温度でよいと思います。
ただ同じ人でも気持ちが弱っている時など、熱くならないとできないこともありますし、熱い気持ちの方がやりやすい人もいると思いますので、人それぞれ、その時々の適温でやることを考えてくださいね。
当事者の感覚次第です
今日は「勝ち負け」「優劣」の発想に染まりがちな社会の環境と、それによる不都合についてお話ししてきました。
自分は、仕事や経営で不都合があるほど、「勝ち負け」や「優劣」の発想に染まっているか?
今この問いをしてみたら、どんな感覚ですか?
明確に言葉で表せなくても、よく考えてみた方がよさそうだと感じるようでしたら、そう思わせる何かを日常の中で感じ取っているかもしれません。
一方、最後までピンと来なかった方は、差し当たって特に必要のないお話だと思われます。
何か感じるものがあった方は参考にしてください。