リチャード・モリタ/ケン・シェルトン著、『My Goal? マイ・ゴール』より。
「考えていたことを上手く言い表せたときに、はじめて、
自分が何を考えていたのか
本当によくわかる。」出典:リチャード·H·モリタ/ケン・シェルトン(2001)『My Goal? マイ・ゴール』イーハトーヴフロンティア p.103
今日は、私自身が「自問→言語化」の効果を実感した体験についてお話ししたいと思います。
ずいぶん前(2002年頃)のことですが、この『My Goal? マイ・ゴール』という本を読んで、この本でたくさん自問をしてみたことで、それまでにはなかった感覚を体験しました。
この本との出会い
この本は『My Goal? マイ・ゴール』というタイトルの通り、「自分の目標」を見つけるための本です。
おそらく多くの人がその目的で購入し、その目的で読み、その目的で活用すると思います。
私の場合はちょっと違っていました。
私がこの本を読むことになった動機は、この本の特定のページに興味を持ったことでした。
たまたま友人と話をしていた時に、その友人がこの本の一節を思い出して、「こういう本にこんなことが書かれていたよ」という感じで教えてくれたのです。
それが次の部分です。
「自己実現というけれど自己を知らなければ、実現のしようがない。僕は多くの成功者をインタビューした。あなたはなぜ成功したのか?って聞き続けた。するとほとんどの人が、必ず子供の頃や両親の話をするんだ。それは、彼らにしてみれば自己紹介とか自叙伝のプロローグではなくて、自分がどういう人間で、なぜその目標を持ったのかということを僕に説明していたんだ。」
リチャード·H·モリタ/ケン・シェルトン 『My Goal? マイ・ゴール』 p.95
友人との会話の内容はあまり覚えていませんが、私自身が関心を持ったところは、おそらく「自己を知る」「自分の考えを知る」「自分の考えの背景を知る」…という話や、「自問」をしないことには始まらないという話だったと思います。
事業で言えば、「なぜ自分がこの事業をやろうと思ったのか?」「なぜやっているのか?」という「自問」をしないことには始まらない(進展していかない)というような。
私自身が当時、「自分の考えの背景を理解すること」や「自問」の重要性を強く感じていたので、友人は教えてくれたのかもしれません。
あるいは私が常々、「前提でつまずいていることはないか?」を問題にすることが多かったので、目標設定という本題の為には「前提」として「自分を知る」ということが必要、さらにその為には「前提」として「自問」が必要、という風に階層的に考える参考として教えてくれたのかもしれません。
この本の構成
この本の構成ですが、前半でまず、目標設定の重要性とその方法について理論的に解説しています。
そして中盤では、その内容を立体的に理解できるように「物語」を取り入れています。
理論的な解説だけでは理解も難しく、イメージもしづらいものですが、この「物語」の部分で主人公と自分をオーバーラップさせながら読むことで、なんとなくのイメージを掴めます。
そして最後に、ここがこの本のメインという見方もできる「469個の質問集」があります。
物語でイメージを掴んだ後、物語の主人公と同じように「自分について考える(知る)」という行為をするための、それを促す質問が用意されています。
469個と聞くと「そんなに?」と感じると思いますが、はじめの方は「生年月日」「出生時刻」や「出身地」、「名前の由来」や「小さなころのニックネーム」など、即答できるか誰かに聞かないと分からないような質問なので、深く考え込むようなことはありません。
そして、「幼児期の友達にはどんな子がいましたか?」「小学生の頃どんな遊びをしていましたか?」といった質問や、「中学生の時に最も影響を受けた先生は誰ですか?」「高校生の頃最も印象深い行事は何ですか?」といった質問へと順に進んでいくのですが、各成長過程の質問ごとに何十個とありますし、新社会人としての質問や現在の仕事での質問、結婚や家族、老後やその他の質問なども同じように何十個とあって、最終的にトータルで469個になっているという訳です。
ちなみに私は、時間がかかりそうなものや、少々考えても分からなさそうなものはどんどん飛ばしましたので、おそらく実質としては半分くらいしか答えていないと思います。
もともと「自分の目標」を見つけるために購入したというより、「自分について考える」「自分について知る」「自問する」ということに取り組んだらどうなるかに関心があったので、とりあえず全般的に一通りやることを最優先にしました。
質問に答えながら自分について考えてみて…
約半分くらいとはいえ、それでも100、200以上の質問に答えていくうちに、今までに味わったことのない感覚が出てきました。
言葉で表現するのは難しいのですが、イメージとしては自分を外から見ている感覚です。
誰かが聞いてくれているわけではないので、質問に答えていくには紙に書き出していくしかないのですが、それなりの数を書き出していくと形としてどんどん見えるようになってきます。
これまでの人生であまり考えたことのない質問も結構ありますし、考えたことがある内容でも書き出す前までは言葉になっていないので、書き出してはじめてハッキリ自覚できます。
「考えていたことを上手く言い表せたときに、はじめて、自分が何を考えていたのか本当によくわかる。」
冒頭で引用した言葉の通りです。
それがどんどん重なっていくと、一つ一つとしては点のようなものがだんだんと線としてつながり、さらに立体のような感じでぼや~っと感じられてきます。
ロシア人形のマトリョーシカのように、ちょっとずつ大きな自分がどんどん加わって人形全部が同時に見えてくる感じで、質問の答え一つ一つではなく、質問の答え全部を同時に見ている感覚です。
すべて自分についてのことでありながらどこか客観的というか、幽体離脱のように自分を俯瞰して眺めている感覚が出てきます。
私は「自問」によって、自分の考えを紙に書き出していくことで、
- 書き出してはじめて(言語化してはじめて)、自分が何を考えていたのかをハッキリ自覚できること
- 一つ一つで捉える感覚だけでなく、(マトリョーシカのように)包括して重層的に捉える感覚も持てること
- 幽体離脱のように自分を俯瞰して捉える感覚を持てること
を体感しました。
この本は、本来は『My Goal? マイ・ゴール』(自分の目標)を見つけるための本だと思いますが、私にとっては「自分(の考えやその背景)を自覚する」ために「自問すること」、そして「紙に書き出すこと」の意義を学んだ本となっています。
この本での体験をもとに応用していること
上手く言い表せないからといって、考えが存在しないわけではない
私たちは意思決定を行う際、論理的に説明できない時には根拠が無いとしてその選択を却下しがちですが、それは根拠が無い訳ではなく、まだ上手く言い表せていないだけかもしれません。
経験的に心や体では痛感していることでも、いつもいつもパッと思い出せるわけではありませんし、咄嗟に言葉にできるわけでもありません。
ちなみに、言語化できない知識や言語化されていない知識のことを「暗黙知」といいます。これはハンガリーの哲学者マイケル・ポランニーが提唱した概念です。
「暗黙知」の代表的な例としては「自転車の乗り方」があります。自転車を乗りこなすことはできていても、その乗り方について、明確に言葉で表現することはできないというものです。「暗黙知」と対照的に、言語化できる知識や言語化されている知識のことを「形式知」といいます。
私は「(言葉で根拠を説明できないし少数派の選択かもしれないけれど)自分の判断を選ぶ」ということが結構あります。特に「なんとなく嫌な気配」「なんとなく腰が重い」といったブレーキの感覚の時には、言葉になっていない何か(=暗黙知)を尊重することが多いです。
言葉にならないうちは心地悪いですし判断に自信が持てないことも多いですが、しばらく経って言語化できることも多いので、意識としては感覚(=暗黙知)を大事にしようと心掛けています。
上手く言い表すために本を読む
自分の中にはあっても上手く言葉にできなかったことが、本を読んでいる時に思いがけず言い表せるようになる瞬間があります。
そっくりそのまま代弁してくれているようなこともありますが、多くの場合は上手く言い表すための欠片のようなものです。それでもそれがきっかけで自分の体験がオーバーラップして、連鎖的にペンが進んでいくことも多いので、何もなく言語化することに比べたら雲泥の差を感じます。
本に限らず、テレビ番組でも映画でも、音楽(歌詞)でも、WEB上の記事でも、日常生活で砂金のような欠片に遭遇した時にはメモを取るのが癖になっています。
自分の考えを再自覚するために、何度でも書く
私は「これを書くのは何度目かなぁ…」と思いながら何度も書いていることがあります。
それは一度自分の考えに気づいたからといって、常にそれを意識できているわけではありませんし、咄嗟に思い出せるわけでもないからです。
落ち着いて考えられる時には言語化できても、日常生活の中で咄嗟に導き出せるレベルには至っていない訳ですね。
(※この状態のことを、私は個人的に「まだ咄嗟力がない」と表現しています。)
同じ内容でも何度も書いていると、だんだん無意識でも思い出せるようになってくるので、そうなるまでは「これを書くのは何度目かなぁ…」と思いながらもメモを取るようにしています。
ピンと来ないものは、差し当たって必要性が低い
人の話を聞いていたり本を読んでいたりする時に、ピンと来る感覚や目から鱗が落ちる感覚を抱く瞬間があると思います。
それは元々あった言葉になっていない思いや考え(=暗黙知)が、人の話や本の一節をきっかけとして、自分でハッキリ自覚できるところ(=形式知)まで浮上してきた瞬間だと私は考えています。
そう考えると、しっかり説明をされていてもピンと来ない内容は、自分の実情とリンクしていない(=自分の中にその話に通ずる共感的な思いや考えがない)という捉え方もできます。
私はこのブログにおいて、ピンと来ないものは読み捨ててくださいと言うことが多いですが、それはベースとしてこの考えを持っているからです。
特に経営者の方は、やらなくてはいけないことだけでも日々追いつかないほど抱えていると思いますので、少なくともそういうものを差し置いてまでは、ピンと来ないものを無理して理解したり、実践したりする必要はないと考えています。
支援においても、当事者自身の「自問→言語化」を基盤とする
プロフィールでも書いていますが、私が価値組経営者の方を支援をする上で基盤としていることは、「内省(自問)」の喚起・促進です。
デジタルメディアの進化によって情報洪水社会になり、情報(ノウハウやアドバイス)は溢れ返っていますが、当事者が今抱えている不都合は今の当事者にしか見極められません。
そして、「考えていたことを上手く言い表せたときに、はじめて、自分が何を考えていたのか本当によくわかる。」という冒頭の言葉通り、それは当事者の「内省(自問)」によって、当事者自身が「言語化」することでしか見極められません。
情報が少な過ぎてつまずいている場合とは違って、情報が多過ぎたり特定の情報に強く縛られたりしてつまずいている場合には、「内省(自問)」が脱却の出発点になると私は考えていますが、私自身、人の力を借りず「内省(自問)」するのにとても苦労してきました。
そんな私個人の体験から、あくまで「内省(自問)」の喚起・促進を支援の基盤とするこだわりにつながっています。
最後にもう一度
最後にもう一度、冒頭の言葉を。
「考えていたことを上手く言い表せたときに、はじめて、
自分が何を考えていたのか
本当によくわかる。」出典:リチャード·H·モリタ/ケン・シェルトン(2001)『My Goal? マイ・ゴール』イーハトーヴフロンティア p.103
今日は、「自問→言語化」の必要性や効果を実感した私の体験についてお話ししました。
少しでも参考になる方がいらっしゃったら幸いです。
(※言語化のために本をたくさん読んだり、日常生活でも砂金のような欠片をメモしていたり、「これを書くのは何度目かなぁ…」と思いながら何度でも書くようにしているのは、職業柄という面があります。他者の自問や言語化を支援する力が不可欠だからです。多くの方はそこまで必要ありませんので、ピンとくる部分のみ参考にしてください。)