知識・考え方

『決定の準備は整った。決定の多くが行方不明になるのがここである。』(ピーター.F.ドラッカー)

 

『ドラッカー名言集 仕事の哲学』より。

意思決定には勇気が求められる

決定の準備は整った。決定の多くが行方不明になるのがここである。
決定が愉快でなく、評判もよくなく、容易でないことが急に明らかになる。
そして、決定には判断力と同じくらい勇気が必要なことが明らかになる。
薬は苦いとは限らないが、一般に良薬は苦い。

………『経営者の条件』

出典:P.F.ドラッカー(2003)『ドラッカー名言集 仕事の哲学』 ダイヤモンド社 p.166

 

今日は、自分自身(経営者自身)に焦点を当てるお話です。

判断と決断の間(理屈と実行の間)でつまずいてしまうケースについて、私なりの考えをお話ししたいと思います。

 

頭ではわかっているけれど…

 

私たちは日々の生活において、さまざまな判断や意思決定を行っています。

それは仕事に限らず、私生活の些細なことから人生の分岐点となるような重大な決断まで多岐にわたります。

 

どんな物事においても、「頭ではわかっているけれど…」ということはよくありますね。

例えば、仕事でとても疲れて帰ってきた時にはお風呂に入るのも面倒だったり、頭が痛い日には歯を磨くことさえ億劫おっくうだったり、元気な時にはなんてことないことでも状況によってはなかなか行動の踏ん切りがつかなかったりします。

頭では「やったほうがいい」と思っていても、それに心や体がついてこないような状況です。

 

日常生活の些細なことでさえそういうことがあるのですから、仕事や経営のそれなりに骨の折れる事柄であったとしても、さほど不思議ではないと思います。

 

抜本的な見直しには抵抗を感じる

 

少し個人的なお話をさせていただきます。

私自身これまでの歩みの中で、何度か大きな分岐点がありました。

 

いずれも自分の目指す事業に向かって全力で取り組んでいる過程で、事業内容の抜本的な見直しを迫られた瞬間です。

それは歩みを進める前の段階では気づけなかったことなので、前進のあかしと言える瞬間でもあるわけですが、実際に抜本的な見直しをすることになれば事業化までの道のりがまた遠のいてしまいます。

 

それが事業を開始してからでも並行して取り組んでいけるレベルのものであれば、そうする選択肢もあるわけですが、当時の私の力量からするとそれはとても考えられません。

事業開始を先延ばしにしてでも見直しを図るか、それとも、そこにはもう手をつけないことにして従来の流れのまま進むことにするか、どちらかの選択をするしかありませんでした。

 

もしやるとなったら数年レベルの先延ばしになるかもしれないと、自分では薄々勘づいています。

それまで自分なりにはかなり根気強くやっていたつもりでしたが、この時は正直気が遠くなるような気持ちです。

それは身近な人(特に配偶者)にとっても、決して喜ばしいことではありません。

 

決定が愉快でなく、評判もよくなく、容易でないことが急に明らかになる。
そして、決定には判断力と同じくらい勇気が必要なことが明らかになる。

冒頭の言葉の通りです。

 

この時は二の足を踏むというより、「目を背けたい」「課題に気づかなかったことにしたい」というのが本音でした。

実際、数日は目を背けていたと思います。

 

結局、「根本的な課題に気づいてしまった以上、それに手をつけないままずっとやっていくのは難しい」という結論に至って現在につながっているのですが、そのプロセスを経た今から振り返っても骨の折れる選択だったと思います。

 

どんな物事でも抜本的な見直しを図る選択は、対症療法的な取り組みと違って、前提にどんどんメスを入れて根本から是正していく取り組みになるため、それなりに骨の折れる道のりになります。

その場しのぎの連続ではいずれ行き詰まってしまうと気づいても、そこで抜本的な見直しにすぐ移れないのは、骨の折れる道のりに心や体が抵抗を感じてしまうからでしょう。

 

意思決定を阻む壁

 

「抜本的な見直し」は意思決定をためらわせることについてお話ししましたが、意思決定を阻む壁として、他にはどんなものが挙げられるでしょうか。

 

「価値組志向」の観点で

「価値組志向」とは、「勝ち負け(競争や優劣)」よりも「独自の価値(意義や目的)」に意識を向けて物事に取り組もうとすることです。「勝ち組志向」と対比して私はそう呼んでいます。(※ 「価値組」とは?)

「勝ち負け(競争や優劣)」は共通尺度で測れますが、「独自の価値(意義や目的)」は個々に違うものですから、おのずと独自の判断や行動をすることも増えてきます。

皆がそれぞれで違った考え方をしている空気の中であれば、独自の判断をするのはそれほど難しいことではありませんが、多くの人が同じように考えている中で自分だけが違った判断をするとしたら、難しいと感じる人が多いのではないでしょうか。

つまり、判断一つ一つの具体的な内容というより、多くの人と違う判断をすることが、意思決定を阻む壁になるだろうと考えられます。

 

「中小企業」の観点で

「中小企業」は「大企業」と違って、一般に経営資源の制約も多く、理屈の上では推奨される選択肢を採用できないことも多いと思います。

したがって常にその時々の十分でない条件の中で、現実策を選択していく必要が出てきます。

傍から見たら「なぜそんなことをしているのか?」、「なぜそんなこともしないのか?」と感じるような選択を、あえてしなくてはならないこともあるでしょう。

そういった背景や制約条件の中では、やはり先ほどと同じように判断一つ一つの具体的な内容というより、多くの人と違う判断や行動をすることが、意思決定を阻む壁になるだろうと考えられます。

 

「組織マネジメント」の観点で

一人で仕事をする場合と違って、組織を率いて仕事をする場合には、それ自体が意思決定を阻む壁になると思われます。

同じ組織で働いている人同士でも、不都合を感じる箇所や感じる度合いはそれぞれで違っており、どんな判断や意思決定が為されたとしても、多かれ少なかれ不平・不満・反発は出てくるものです。

一人で仕事をしていればパッパと意思決定をしてテキパキと行動していけるような問題の時でさえ、組織(従業員)を率いて仕事をしていると批判や抵抗を伴うこともあるため、意思決定をためらうこともあるでしょう。

まして、新たに何かをはじめる時や抜本的な見直しを行う時には、少なからず試行錯誤のプロセスを伴うため、一人で仕事をしていてもパッパと進められるものではありません。

組織として皆の理解が得られるわけではない決断に、見通しが立っているわけではない問題も掛け合わされてくれば、冒頭の言葉のように決定が行方不明になっても不思議ではないと思います。

 

「勇気」について考えてみる

 

ここでちょっと、「勇気」というものについて考えてみたいと思います。

 

冒頭の言葉で、

決定には判断力と同じくらい勇気が必要なことが明らかになる

とありますが、「勇気」というものについて、どんなイメージを持ちますか?

 

「勇気」というと、「危険や困難を恐れない心」をイメージをする人が多いのではないでしょうか。

例えば、バンジージャンプをする台の上に立って、いざ飛び降りようとする時には、今お話しした「危険や困難を恐れない心」という意味合いがとても合うと思います。

 

では、「勇気」というのはそういう意味合いだけかと言うと、そうではないように思います。

先ほどのバンジージャンプの例で言えば、思い切って飛び降りるという行動にももちろん勇気が要りますが、人によっては意外とそれ以上に勇気が要るのが、結局飛び降りないままで帰ってくることだったりします。

 

想像してみてください。

飛び降りる台の上まで行っただけでなく、周りの人から何度となく「3、2、1、GO!」と言われ続けて、何十分も「ちょっと待ってください!」というやりとりをした挙句、最終的に飛ばずにトボトボと降りてくる自分の姿を。

もちろん人によって分かれるところですが、それをするくらいだったら怖いけれど飛んだ方が増しだという人も多いでしょう。

 

今はたまたまバンジージャンプの例でしたが、違う例(もっと怖い行為)を考えてみたら、やめて帰ってきた方が増しとなるかもしれません。

つまり、「勇気」と一言で言っても、「危険や困難を恐れない心」という意味合いの「勇気」だけでなく、「恥ずかしい事を受け入れる心」のような意味合いの「勇気」もあって、その2つの「勇気」の狭間で葛藤していることもあると思うのです。

 

これを仕事や経営での意思決定に当てはめて、イメージしてみてください。

周りの人たちが怖いと思うような選択について、強い心意気を持って挑んでいくのも勇気が必要ですが、周りの人たちがみんなそろってやっている選択について、あえてやらない決断をするのもとても勇気がいると思います。

 

また、その2つの「勇気」の狭間で葛藤した場合には、どちらに軍配があがるとしても、最終的にはいずれかの「勇気」を選択することになります。

つまり、いずれにしても「勇気」を持った行動になるわけです。

 

この時、あえてやらない決断をした場合に、「挑めなかった弱い人間」と捉えるか「断念した勇気ある人間」と捉えるかは人それぞれですが、葛藤させるほど意思決定の壁になっていることは間違いないですし、私は「あえてやらない選択」をするのも「勇気の要る決断」だと捉えています。

 

自分(経営者自身)を動かすために

 

さて、ここまで「意思決定の壁」や「勇気」について考えてきましたが、「じゃあ、勇気を持とう!」と言って簡単に「勇気」を持てるわけではありません。

ではここまでのお話を踏まえて、どんな建設的な対策が考えられるでしょうか。

 

自分を責めても本質的には誰も得しない

先ほど、あえてやらない決断をした場合に、「挑めなかった弱い人間」と捉えるか「断念した勇気ある人間」と捉えるかというお話をしましたが、この時に自分(経営者自身)のことを「挑めなかった弱い人間」と捉えるのは、建設的な対策としてもちょっと疑問です。

「挑めなかった弱い人間」と捉えることで何かが好転していくのであれば、それは建設的な対策の一つと考えられますが、そう捉えていても意気消沈して、自信を失ったり、さらに決断力や行動力が落ち込んだりしてしまうことの方が多いのではないでしょうか。

それは自分(経営者自身)にとってももちろん好ましいことではありませんし、共に働いている従業員の方々や、商品やサービスを利用してくださっているお客様にとっても好ましいことではありません。さらに、業績にまで影響してくれば、自分や従業員の皆さんの身近な人たちにとってもそうですし、納める税金も違ってきますので国や地域社会にとっても好ましいことではありません。

もし誰かしらにバカにされたとしても、否定されたとしても、勇気がないと言われたとしても、決断する選択がもう変わらないのであれば、落ち込んでいる間にも固定費がかかっている訳ですし、一刻も早く顔を上げて再スタートするのが、本質的には事業に関わる全ての人たちにとって好ましいことだと思われます。

そうは言っても時として、意気消沈してしまうことはあるでしょう。私自身、精神的に強い方ではないので非常によくわかります。しかし意気消沈することと、意気消沈し続けることでは大きな違いがあると思います。「バカにされる勇気」「否定される勇気」「勇気がないと言われる勇気」を持って決断したんだという新たな捉え方をして、気を取り直して前を向くという、そんな引き出しを持っているだけでもだいぶ違うのではないでしょうか。

 

「劣等感」ではなく「劣等認識」で

「劣等認識」というのは、私が便宜上、個人的に使っている言葉です。

例えば、陸上男子100mの世界記録保持者、ジャマイカのウサイン・ボルト選手と自分を比べて、自分の方が足が遅いからと言って「劣等感」を感じる人はあまり多くないと思います。自分の方が明らかに劣っていると認識はしていますが、だからと言って、引け目を感じて心が萎縮してしまう感覚を抱くわけではありません。そんな状態のことを、私は個人的に「劣等認識」と称しています。

何らかの決断をするに際して、「勇気を持てないこと」だけでなく、「自分ができないこと」「得意でないこと」「力を発揮しづらいこと」「成果を出しづらいこと」など、そういった側面に「劣等感」を持ってしまうと、事あるごとに感情が揺さぶられて心が萎縮し、冷静な思考ができなくなってしまいます。

一方、「劣等認識」の状態にできるだけ近ければ、あまり感情が揺さぶられることもなく、冷静な頭で次の対策を考えることに向かえます。

そう考えると、「勇気が持てないこと」自体よりも、「どこまでは勇気が持てなくて、どこなら勇気が持てるか」を俯瞰できていないことの方が問題だと思います。同様に「自分ができないことと、できること」「得意でないことと、得意なこと」「力を発揮しづらいことと、力を発揮しやすいこと」などを、俯瞰することが大切です。

自分がどんな力量だったとしても、仮にどんなに劣っているとしても、今の力量でできることでしか状況は変わっていきません。その現実に立つと、「できないこと」があるままで「その上でもできること」を自覚する意識が、現実策に向かうスタート地点だと思います。

 

自分(経営者自身)の開発を考える

私の言う「開発」とは、「力を発揮しやすい条件を整える(能力発揮を妨げている要素を取り除く)」ということです。(※ 「人材開発」「組織開発」とは?)

自分の力量自体が変わらなくても、環境や条件が違うだけで力を発揮しやすかったり、成果が出やすかったりすることがあると思います。

例えば、体調が悪くて立っているだけでも精一杯という時には、他者のことを配慮したり、手を貸してあげたりということは難しいですよね。むしろ自分の方が助けて欲しいくらいの状況ですから。
でも自分の体調がよい時には、それほど意識しなくても自然とやれていたりするものです。

同じように仕事や経営においても、自分に余裕がない時には他者のことに意識を向けたり、サポートしたり、ミスを受け入れたりということは、なかなか難しいかもしれません。

そんな自分の状況を俯瞰していたら、常に少しくらいは余裕を持っておこうとなるかもしれません。

それは心の余裕でも体力の余裕でも、時間の余裕でもお金の余裕でも、何にしても流れを変えてしまうのであれば同様です。

財務のP/L・B/Sと同じように考えて、心についても体力にしても時間にしても固定費を低く保つということが、もしかしたら意思決定の上でも大切かもしれません。

他にも「日々どんな人と接していると調子がいいか?」「日々(どんなメディアは節制して)どんなメディアに触れていると力を発揮しやすいか?」「日々どんな本に触れていると勇気が湧いてくるか?」などを意識することで、力量自体がすぐに変わらなくても、意思決定や力の発揮の観点ではずいぶん違ってくると思います。

 

現実の自分に立脚して…

 

今日は、「意思決定の壁」や「勇気」ついてお話をしてきました。

 

私はなんでもかんでも闇雲に挑むことだけが勇気ではないと考えています。

自分の実情を直視して、「挑むこと」と「断念すること」をしっかりと見極めて決断し、実行する、そのどちらも勇気だと思います。

 

どんな決断であっても、周りに何と言われても、その時々の現実の自分ができることでしか自分を前進させることはできませんし、そこからしか組織(従業員の皆さん)を牽引けんいんしてしていくこともできません。

外野の声によって意気消沈してしまうこともあると思いますが、その度にその状況の中でもできることを思い出して、着実に現実策を積み重ねていって欲しいと思います。

 

今日はとても長くなってしまいました。

長々と読んでくださいましてありがとうございます。

 

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