言葉の解釈

「自律」とは?

 

「メンタリング」と「メンタルトレーニング」の違いとは?』の記事から「自律」に関する部分を抜粋し、加筆修正しました。

 

「自立」と「自律」、どちらも「じりつ」と読むので分かりにくいですが、今日は「自立」でなく「自律」のお話です。

 

ちなみに「自立」の対義語は「依存」、「自律」の対義語は「他律」です。

「自立」は「依存していない状態」、「自律」は「他律でない行動」を意味しているので、状態行動で区別すると捉えやすいかもしれません。

「自律」とは?

 

「自律」とは、「他からの支配や制約を受けることなく、自分自身で立てた規範に従い行動すること」という意味です。

「律」には、「規律、規範、基準、おきて、決まり、法則」などの意味や、「手本として従う」「ある基準に照らして判断・処理する」などの意味がありますので、「自律」はを短めに言うと「自分の基準に照らして行動すること」といったところですね。

 

もっと短く「自分の基準で行動すること」と言いたいところですが、「自分の基準で…」と「自分の基準に照らして…」では微妙にニュアンスが違います。

後者の表現には「他者や社会の基準も、自分の基準も、どちらも考慮して…その上で…」というニュアンスが感じられますが、前者の表現は「なんでもかんでも自分の考えで…」という風にもとれます。

 

「自律」は、我を押し通すような「我律」ではありません。

「他者や社会の律と、自分の律を、どちらも理解・尊重し、調和されられる部分は調和させ、相容あいいれない部分については毅然きぜんとして行動する。」

そんな意味合いも含めて捉えるのが適切でしょう。

(※「我律」という言葉は辞書にはありません。「自律」のニュアンスをつかむために対比として用いた造語です。)

 

「自律」の反対は「他律」ですが、「他律」「自分の律によらず、他者や社会の律に従って行動すること」です。

「他律」というと、まず他者の指示や命令、強制などで行動するイメージが浮かぶと思いますが、私は日々の実用においては、周りの空気(同調圧力)に流されて行動したり、一般論や常識にとらわれて行動したりすることをベースに捉えています。

経営者の方が、自分自身の行動を考える際には、この捉え方の方が適しているかもしれません。

 

また私は、「自律をしよう」という意識よりも「人に流されないようにしよう(=他律にならないようにしよう)」という意識の方が強いので、「他律」ではないのが「自律」と捉えています。

つまり、周りの空気(同調圧力)に流されず自分の基準にのっとって行動したり一般論や常識とらわれないで自分の指針に基づいて行動したりすることを意識する捉え方です。

 

「自分の基準を醸成する」には?

 

周りの空気(同調圧力)に流されず自分の基準にのっとって行動したり一般論や常識とらわれないで自分の指針に基づいて行動したりすることというのは、口で言うのは簡単ですが、実際にやろうとしてみると簡単ではないですね。

 

そのように行動するためには、まず大前提として「自分の基準を醸成じょうせい する」ことが必要になります。

そして、「自分の基準を醸成する」ためには、さらに前提として「自分で考える(自問する)」ことが必要になります。

 

「自分で考える(自問する)」ことなく、自然と「自分の基準」ができあがってくれたらありがたいですが、そう都合のよい展開にはなってくれないですよね。

やはり日常のどこかで最低限の時間やエネルギーを注いで、自分の考えを発酵させるプロセスが必要だと思います。

「醸成(じょうせい)」には2つの意味があります。
①原料を発酵させて酒や調味料などをつくること。醸造。
②考え方などが徐々に形成されること。
ここでは「発酵食品をつくるように自分の考えを発酵させてつくっていく」意味合いで使っています。
一気に何かがつくり出される場合には、醸成とは言いません。日常的に手間をかけることで、徐々に形成されていくのが本質です。

 

「刺激」と「余白」の両方が必要

 

自分の考えを活発に発酵させるためには、私は「刺激」と「余白」の両方が必要だと感じています。

例えば私の場合ですと、NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』という番組を観たりしますが、それは私にとって絶妙な「刺激」と「余白」があるからです。

 

「刺激」の観点

 

まず「刺激」の観点ですが、私は『プロフェッショナル 仕事の流儀』という番組に対して、ノウハウやテクニックといった表層的なものを期待しているわけではありません。

価値観やものの見方、心構えや思考の前提となる発想・世界観など、判断や意思決定を左右する根っこの部分で刺激をもらいにいっている感じでしょうか。

日常ではどうしても実務面(=表層的な部分)に終始してしまう傾向があるので、普段よりも深い部分での刺激を求めているのだと思います。

かといって枝葉の部分を無視しているかと言うと、そういうわけでもありません。

仕事のやり方やこだわり、生い立ちや経緯、今の仕事に就くことになった背景や動機、人生観や仕事観、苦しかった体験や今闘っていることなど、さまざまなものが掛け合わされてプロフェッショナルの方々が形成されていると思いますし、私自身もそういったもの丸ごとで刺激を受けて、自分のかてにしようとしているように思います。

 

「余白」の観点

 

「余白」の観点でいうと、ドキュメンタリー番組だけでなく、映画を観たり、本を読んだりしている時というのは、外から刺激を受けながらも自分の内側でいろんな思いが浮かんできたり、過去の体験が思い出されたり、言葉になっていなかった考えがまとまってきたりと、アウトプットの方も活発に行われます。

特に考えようとせず気軽に映画を観ているだけでも、考えるのに十分な余白が存在することで、自然と自分の思いが発酵されたり再発見できたりするわけです。

(※ちなみにテレビ番組は録画で観ます。理由①:落ち着いて考えられる時間に観るため。理由②:いつでも一時停止して熟考したりメモをとったりできるように。つまり、「余白」を確保するためです。)

 

「余白」の少ない例

 

一方、「余白」の少ない例としては、講習を受けたり、アドバイスを受けたり、トレーニングを受けたりすることが挙げられます。

そういう時は、インプット、つまり情報を理解しようとしたり、技能を習得しようとしたりすることに、意識やエネルギーのほとんどが注がれます。

外からの「刺激」を処理するのに精一杯で、自分の考えを発酵させられるような「余白」はあまりありません。

 

「刺激」の少ない例

 

逆に、「刺激」の少ない例としては、コーチング(=質問や傾聴によって当事者の内面にある答えを引き出す手法)を受けることが挙げられます。

もちろん、コーチングをしてくれるコーチが一線で活躍するレベルであれば別かもしれませんが、多くの人にも使えるよう体系化されたコーチング手法を学んだだけでは、質問の内容が月並みになりがちで、自律を触発する「刺激」という点では物足りない気がします。

質問されれば自問が喚起されるのは間違いないですが、コーチングを受ける自分の側に考えを発酵させる材料が不足している場合には、いくら傾聴をしてもらっても(=アウトプットのための「余白」がたっぷりあっても)なかなか発酵は進みません。

 

「刺激」と「余白」の両方がある時間や場、きっかけが要所

 

やはり、エネルギッシュで主体的な化学反応が起こるような「刺激」と、その化学反応を活性化させられるだけの「余白」の両方が必要だと、私は体験から感じています。

もし今のお話で通ずるものがあるようでしたら、日常のどこかで「刺激」と「余白」の両方がある時間や場、きっかけを持てるかどうかが、一つのポイントになるのではないでしょうか。

ひと昔前と違って現在は、スマホをはじめとしたデジタルメディア社会で、アウトプットに必要な「余白」の時間が24時間体制で削られてしまうため、あえてその時間を確保することも大切かもしれません。

自律方向に自分の考えを発酵させる観点でのお話です。もちろん講習やトレーニング、コーチングなどを否定しているわけではありません。用途・目的が変われば、有用性も違ってきます。
他律傾向(=流されがち)の現状に問題を感じている方に参考にしていただけたら幸いです。

 

「自分の基準に照らして行動する」には?

 

次に、「(一般論や周りの行動と違っていても)自分自身で決めた基準に照らして行動すること」を考えます。

 

自分の基準が自覚できていればそのように行動できるかと言えば、そんなに単純な話ではないと思います。

少なくとも私は、この部分で非常につまずいてきました。

 

周りと違う行動をするのは、孤独を受け入れる闘いも伴います。

ある意味、多数派の無難な道からドロップアウトするようなものですから。

迷いや葛藤が生まれたり、ひるんだりしても不思議ではありません。

 

もっと知識を増やせばできるとか、もっとメンタルを鍛えればできるとか、そういったものでもないと思います。

やはり、自律の本能を呼び起こしてくれる刺激にたくさん触れることではないでしょうか。

頭でなく、心や体が反応するような刺激です。

 

それはもちろん直接会える人だけでなく、テレビや映画、本などを通して触発されることも含めてです。

スポーツ選手でも、アーティストでも、無名の人でも、…どんなジャンルの人でも構わないと思います。

また、本の一節や映画のワンシーン、登場人物から触発されるものがあるなら、フィクションでもノンフィクションでも構わないと思います。

 

そうやって心や意識の深い部分を揺さぶられる刺激にたくさん触れることで、強く影響を受ける人(=自分に近い境遇や感覚を持った人)に出会う確率も上がりますし、コップに水が溜まるように静かな胆力(=自分の道筋に対する肯定感)も培われていくものだと思います。

 

日常的に「刺激」と「余白」の両方がある時間や場、きっかけを持つことは、「自分の基準を醸成する」面でも、「自分の基準で行動する」面でも、必要不可欠な要所だと私は感じています。

 

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