【補足】
●「やった方がいい」というお話ではない
『「アドバイス」ではなく「問いかけ」』の記事でも触れていますが、このブログでお話している内容は、「やった方がいい」というものではありません。
「やった方がいい」というよりは、どちらかというと「やったっていい」というお話です。
基本的には「問いかけ」のスタンスで発信していますので、正確には「やってもよいのでは?」というニュアンスですが、「やった方がいい」と受け取られてしまうよりは、「やったっていい」と解釈してもらえる方が嬉しいです。
例えば、『「差別化」を考えると流れが悪くなる?』の記事では、「差別化」に代わる発想として「相乗効果」のお話をしました。
ただこのお話は、「差別化」の発想をやめて「相乗効果」の発想をした方がいい、というメッセージではありません。
あくまで「差別化」の発想では不都合が出てしまう対策として、まず「差別化」の発想をやめる案を提起しています。
その上で、次の選択として「相乗効果」の発想を提起しています。
そもそも「差別化」の発想でうまくいっている、あるいは特に不都合を感じていない状況であれば、わざわざ「差別化」をやめる必要はないでしょう。
日々やらなくてはいけないことがたくさんある中で、目立った必要性を感じていないことに有限のリソース(時間、お金、気力、体力など)を割くのは、むしろ問題だと思います。
では、どんな状況の人に向けてお話ししているかというと、薄々「差別化」の発想に不都合を感じているものの、自分を取り巻く環境が「差別化!」「差別化!」という空気で満たされているような人です。
「みんな、自分に合ったスタイルでやったらいいよね~」という多様性を尊重する空気であれば、「自分は○○の発想でやってみようかな」と思えるかもしれませんが、支配的空気ができあがっている環境では、なかなかそう思えるものではありません。
「差別化」のお話に限りませんが、これまで私自身、さまざまな事柄で違和感や問題意識が出てきても、支配的空気に圧倒されて自分の感覚(考え)を否定してしまうことが多々ありました。
それと同時に、否定的に捉えていた自分の感覚(考え)を肯定的に再考できるようになった体験も多々あります。
何がキッカケだったかというと、多くの場合、本やドキュメンタリー番組です。
本の一節やドキュメンタリー番組のワンシーンで、自分と同じ感覚(考え)の刺激に触れた時に、
『身近にはいないけど、こう感じている(考えている)のは自分だけではないんだ!』
『少数派かもしれないけど、そう判断している人もいるんだ!』
『実際そうやっている人もいるんだ!』
『そういう選択をしたっていいんだ!』と、
心や体の深いところで化学反応が起こり、肯定的に再考できるようになりました。
よく考えてみると、「やった方がいい」という発想の時は、「やらない選択」を否定的に捉えているように思います。
そして、支配的空気と自分の考えが違っている場合には、どちらかを否定してしまうような感覚になります。
それが「やったっていい」という発想になると、「やる選択」も「やらない選択」も、どちらも肯定する感覚を持てます。
そして、それは支配的空気も自分の考えも、どちらも肯定する感覚につながります。
私はこの感覚(どちらも肯定しているイメージ)を持てた時、自分を縛っていた何かから脱却できることが多かったように思います。
できることなら、この感覚(どちらも肯定しているイメージ)も含めて、メッセージとして受け取って欲しいです。
「差別化」の発想をやめて「相乗効果」の発想をした方がいい、というメッセージではなく、「差別化」の発想でも他の発想でもOK。
「差別化」の発想に不都合を感じている自分もOK。
「差別化」をやめる案がチラついている自分もOK。
もちろん、「差別化」の発想を積極的にやっている皆さんもOK。
この前提のもとで、自分にとっての現実解を自問する。
『「理念で飯が食えるのか?」という問いは、自分の役に立つのか?』の記事では、理念の必要性について考えましたが、このお話も「理念があった方がいい」というよりは、「理念があったっていい」という感覚です。
「理念が必要」という人もOK。
「理念なんか要らない」という人もOK。
「従業員が増えてくるにしたがって、理念が必要と感じるようになってきた」という人もOK。
自分の周りは「理念なんか要らない」という人ばかりだけれど、そんな中で「理念が必要」と感じている自分もOK。
(理念が無いことで現実に不都合があるならば、周りは別として、自分は「理念が必要」と感じるのは決しておかしなことではない。)
そういう前提のもとで、自分にとっての現実解を自問する。
こんな感覚で、このブログの内容を受け取っていただけたら幸いです。