【補足】
『「精神論で飯は食えない」という意見について、“前提”を考察したらスッキリしました。』の記事の補足です。
●「精神論」の是非より、“前提”に着目した方が有用では?
近ごろは「精神論」を忌み嫌う風潮が強くなっていますね。
「精神論」が毛嫌いされる理由って何でしょうか?
基本的に「精神的な話」自体が曖昧なもので、合理的でない、論理的でないという点で敬遠する人が多いのかもしれません。
意外と他の面で受けつけないことも多いと思います。
まず『○○があれば何とかなる!』という文脈・姿勢ですね。
『気合いがあれば…』『気合いでやれば…』
『根性があれば…』『頑張れば…』
『それで何とかなる!』と片付けられる感じです。
強要・押しつけの部分もあると思います。
『気合いがあれば…』『気合いでやれば…』
『根性があれば…』『頑張れば…』
『そうすれば何とかなるから、やれ!』のような。
あるいは、「長時間労働」や「過重労働」など無理・無茶につながることを懸念している人も多いでしょう。
裏を返すと、そういう部分を心得ていたら、ここまで毛嫌いされることもないのかもしれません。
先ほど挙げた例の『気合い』『根性』『頑張り』といったものは、「精神論」の中でも「根性論」の範ちゅうに入るもので、特にこれらが苦手という人も多いと思いますが、別の言葉にしてみると少し印象が違ってくるかもしれません。
近い意味合いの言葉をいくつか挙げてみます。
『気合い』・・・『精神集中』『気構え』『心構え』『気持ちを奮い立たせること』『意気込み』『気持ちの張り』など
『根性』・・・『気概』『根気』『粘り』『意志』『やり切ろうとする気持ち』『踏ん張り』など
『頑張る』・・・『持ちこたえる』『乗り切る』『踏ん張る』『屈しない』『挑み続ける』『やり続ける』など
仕事から帰ってきて疲れている時、お風呂に入るのもしんどいっていうことありませんか?
そんな時、私は『エイッ!』と『気持ちを奮い立たせる』ことがあります。
その後、ご飯を食べたり、食器を洗ったり、歯を磨いたり、・・・
今の季節であれば、急にストーブが消えてしまって灯油を入れにいったり、・・・
そんな時も、『エイッ!』と。
これ、『気合い』に近いですね。
私は日常的に「ジョギング」や「スクワット」をやっていますが、やりながら『もうちょっとやり続けてみよう』と考えることがあります。
これ、『根性』や『頑張り』に近いです。
これらは「根性論」でしょうか?
「根性論」かもしれませんし、「根性論」じゃないかもしれません。
否定的な人になんとか受け入れてもらおうと、必死に頑張っているわけではありませんよ(笑)。
もちろん、人それぞれの考えがあっていいんです。
今日のお話は、
あまり「精神論」「根性論」の是非にこだわり過ぎない方がよいのでは?
という問題提起です。
例えば強要・押しつけの点で言うと、「精神的な話」でなく「論理的で具体的な手法の話」でもうとましいと思います。
無理・無茶の観点では、「固定費が不相応に高いこと」で陥ってしまうこともあります。
文脈・姿勢については『「精神論で飯は食えない」という意見について、“前提”を考察したらスッキリしました。』の記事でも触れていますが、
健康法にせよ、仕事の要諦にせよ、前提として「物事は何か一つでなんとかなるわけではない」という見方もあります。
とりたてて『気合いがあれば…』『気合いでやれば…』『根性があれば…』『頑張れば…』といった姿勢だけを問題視するのではなく、
『○○を食べていれば…』『○○をするだけで…』といった健康法や仕事術も同じように捉える見方です。
「真面目」「誠実」「地道」「根気」「熱意」「プラス思考」・・・
こういった要素も、それ自体は否定されるようなものではなく、長所になると考えてもよい資質だと思いますが、『○○があれば…』『○○に(で)やっていれば…』という文脈・姿勢とくっつくと、途端に腑に落ちない感覚になります。
「精神的な話」は勘案(=考えあわせること)するものであって、それだけに依存したり、それだけで勝負したりするものではありません。
その意味では「合理的な話」「論理的な話」も同様だと思います。
「精神論」「根性論」の議論も大事かもしれませんが、実用の観点では、前提に着目するのも選択肢の一つではないでしょうか。