「精神論で飯は食えない」
こんな意見に遭遇したことはありませんか?
私は結構あります。
セミナーや講演会だったり、本やwebサイト上の記事だったり、遠回しでしたが直接言われたこともあります。
私はこの発言が苦手でした。
体験上、この発言をする人の話を聞くと、釈然としない気持ちになることが多かったからです。
もちろんこの意見を否定している訳ではありません。
ただ、この発言をする人の話を聞くと以前の私は成果が落ちることも多く、現実的な点でもマイナスの影響がありました。
また、以前は釈然としない気持ちを言葉にすることができなかったので、何とも言えないモヤモヤ感も抱えていました。
今は自分なりに言語化できており納得もできているので、そのモヤモヤ感はなくなっています。
その一方で、以前の私と同じように釈然としない思いや、モヤモヤした感覚を持ち続けている人がいるんじゃないかと思うと、別の意味でのモヤモヤ感は出てきます。
今日は、私と近い感覚をお持ちの方に向けて、以前の私がモヤモヤしていた部分についてお話ししたいと思います。
釈然としない思いを整理する糸口となれば幸いです。
何かが引っかかっている感覚
私は若い頃から、精神論(精神的なことに関する話)を肯定的に捉えていました。
今も、肯定的に捉えています。( ※ 私が言う「精神論」とは? )
というよりも、昔も今も私にとっては考慮から外せない必要不可欠なもので、肯定的というレベルではありません。
また自分だけでなく、境遇の近いお客様にも「不可欠なものではないですか?」と提起しているほどですから、私の向き合い方や温度感はなんとなくお察しいただけると思います。
一方「精神論で飯は食えない」という表現が使われる時は、多くの場合、精神論(精神的なことに関する話)が否定的に扱われます。
中には、精神論(精神的な要素)に真剣に取り組んでいる人を小馬鹿にする感じの人もいますね。
基本的に、この構図があることで不快感が生じるとも言えるのですが、私の場合はバカにされたとか、見解の違いを受け入れられないとか、そういうものとは別のところで何かが引っかかっている気がしていました。
その部分を掘り下げて考えてみます。
発言の趣旨を掘り下げてみる
当初の私は、「精神論で飯は食えない」という表現を、「精神的な話で飯は食えない」という意味合いで受け取っていました。
でもよく考えてみると、この表現は言いたいことはなんとなく伝わってくるのですが、どこか言葉足らずというか説明が不十分で、誤解の余地がある気がします。
当時は、そのポイントになかなか気づけなかったのですが。
どうもしっくりこない「精神論で飯は食えない」という表現を、私なりに補足して手直してみたら、「精神的な話だけで飯は食えない」という形にたどり着きました。
「精神的な話で飯は食えない」のままだと否定的な印象ですが、「精神的な話だけで飯は食えない」にすると、「精神的な話」自体が否定されているというより、「精神的な話だけで何とかしようとしている姿勢」の方に問題がある印象に変わってきます。
例えば、「思い」や「熱意」、あるいは「経営理念」といったもの、もちろんそういうものは大切だけれども、具体的に何をやるのか明確にしていかないと、それだけでは稼ぎを生むような成果につながりませんよ、という趣旨の発言として受け取れるようになります。
こういう風に調整して解釈すればよかったんですね。
なぜか、まだモヤモヤしている…
ところが、この時点でスッキリするかと思いきや、まだモヤモヤ感が残っていました。
過去を振り返ってみたときに、「精神的な話」自体を否定している発言があったことは間違いないからです。
私の中では「精神的な話」自体が否定されているというより、「精神的な話だけで何とかしようとしている姿勢」が問題、という風に受け取るようになりました。
その解釈と、「精神的な話」自体を否定している発言が矛盾して、整合性がとれず、依然としてモヤモヤしていたんです。
この壁を抜けるまでも長かったですね。
この壁の突破口は、錯覚(思い込み)でした。
私は、自分がやっていることは同じように他者もやっているものと思い込んでいたことで、モヤモヤから抜け出せずにいたのです。
発言自体ではなく、前提の違いでつまずいていた
どうやら「精神論」云々の前に、物事を単眼的に扱っている人と複眼的に扱っている人がいるようだ、ということに気づきました。
先ほどの「精神的な話だけで飯は食えない」という解釈ですが、これは複眼的な見方を前提にしています。
健康法で例えると、「○○を食べていれば…」といった単品型アプローチをしない世界観ですね。
健康法にせよ、仕事の要諦にせよ、「物事は何か一つでなんとかなるわけではない」という世界観がベースにあります。
一方、「○○を食べていれば…」「○○をするだけで…」といった単眼的な健康法と同じように、「これ一つでなんとかなる」という世界観で、さきほどの発言を解釈することもできます。
そうすると、「精神論で飯は食えない」という発言は、「精神的な話だけで飯は食えない」という行間ではなく、
「精神的な話で飯は食えない(飯が食えるのは精神的な話ではなく、私が今お話ししている○○です)」のような含みになります。
こういう文脈で話を進められたら、「精神的な話」自体が否定されていると感じてもおかしくないですよね。実際、否定していますし。
自分が複眼的に観ているので皆が複眼ベースで発信していると思い込んでいたのですが、実は単眼ベースで発信している人もいたようです。
どうりで見解の違いとして納得しようとしても、難しかったわけです。見解が違っているというより、根本的に前提の世界観でつまずいていました。
この考えに至ってそれを自分で言語化できたことで、ようやくモヤモヤ感が消えました。
自分の特性や傾向を認識(自覚)して
私は複眼的なアプローチをするタイプです。
「精神的な話だけで飯は食えない」だとしっくりきます。
「精神的な話」でなくても、「合理性」や「論理的思考」でも同じですし、極端な話「休憩」や「睡眠」でも同じ感覚です。
「合理性だけで飯は食えない」「論理的思考だけで飯は食えない」「休憩だけで飯は食えない」「睡眠だけで飯は食えない」。
その通りですよね。でも「休憩」も「睡眠」も、とても大事です。
そもそも私が「精神論(精神的な話)」に力を入れ始めた発端は、「合理性」や「論理的思考」に傾斜し過ぎたことによるつまずきです。
社会に出たての頃の私は、どちらかと言うと「理屈」「理論」「方法論」に終始しがちで、「精神的な要素の影響」をあまり考慮していませんでした。
しかし数年のうちに、『人が理屈通りに動くわけではないこと』や、『物事が理屈通りに進行するわけではないこと』を思い知らされます。
それを転機として、「(精神的な要素も含めて)人間の非合理的な部分」を非常に勘案するようになり、現在の活動にもつながっています。
というわけで、私はもともと「精神的な話」だけで何とかしようとする姿勢よりも、「理屈」や「合理性」だけで何とかしようとする姿勢の方が注意だったんですね。
そんな経緯で「精神的な要素」にも注力するようになったのですが、途上ではこんな風に言語化できていなかったので、「精神論で飯は食えない」といった意見に遭遇する度にモヤモヤしていた訳です。
現在はこのような背景を明確に自覚し、「精神論(精神的な要素)」にも粛々と取り組んでいます。
私と同じような傾向の人(組織)にとって、「精神論(精神的な要素)」は重要課題の一つだと思います。
近い感覚をお持ちの方は、参考にしてください。