今日は、紙に書く効用のお話です。
紙に書くのはなぜ?
タイトルに書いた「58×27+13×87+134×18=?」の計算式ですが、数字自体にはあまり意味はありません。
今、適当に作った計算式です。
この計算式でなくても構いません。
「135×72+580×259+45×25=?」でもよいです。
「345×598+333×44+55×66=?」でもよいです。
数字自体は何でもよいのですが、一つ共通する特徴があります。
それは、「多くの人がきっと暗算ではできないだろうなぁ」と思われる計算式です。
もしかしたらパッと暗算でできる人もいるかもしれませんが、多くの人はきっと、紙に書いて計算しないと難しいですよね。
そのくらいの難しさを感じるようイメージして作りました。
私がこの計算をするとしたら、こんな手順になります。
まず「58×27」を、紙に筆算で書いて計算して、「58×27=1,566」と出ます。
次に「13×87」も、紙に筆算で書いて計算して、「13×87=1,131」と出ます。
その次に「134×18」も、紙に筆算で書いて計算して、「134×18=2,412」と出ます。
そして最後に、3つに分けてそれぞれ計算したものを全部足すのですが…
この「1,566+1,131+2,412」も、紙に筆算で書いて計算して…
ようやく、
58×27+13×87+134×18
=1,566+1,131+2,412
=5,109
と出ました。
さて、私が今日お話ししたい内容に移りますが、それは「紙に書くのはなぜ?」ということです。
多くの人が紙に書いて計算するのはなぜでしょうか?
紙に書いて一つ一つ計算していかないと、計算が全部できないからですよね。
暗算でできるなら紙は使いません。紙に書かなくても計算できる訳ですから。
シンプルな理由ですね。
- 紙に書かないと目的を達成できない から、紙に書く。
- 紙に書かなくても目的を達成できるなら、紙に書かない。
そういうことですね。
この考え方を応用します。
紙に書いて考え事をする
私はゆっくり時間をとって自問したり、あれこれ深く考えたりする時には、紙を使います。
それはなぜかというと、先ほどまとめた通りです。
- 紙に書かないと目的を達成できない から、紙に書く。
- 紙に書かなくても目的を達成できるなら、紙に書かない。
それが理由です。
冒頭の複雑な計算式で言うと、紙に書かなかったら1つ目のかけ算さえできません。
頭で考えているだけではそこから先へ進みません。
進む人はよいと思いますが、私の場合は進みません。
同様に、「言葉になっていないことを自問して言語化したり、多面的に物事を考察したりすること」は、私にとっては「かけ算の足し算」のようなもので、どんどん書いて書いて書き出していかないと次のことが考えられません。
次のことに移るためには、書き出すことが必要なのです。
そして書き出していくことで、『こんなことを自分は考えていたんだなぁ…』という内容が紙面に現れてきます。
書き出されたものをいろいろ眺めていると、
『これとこれは同じことを言っているなぁ…』
『これがあるから、こうなるのかなぁ…』
『これ、もっと分かりやすい言い方はないかなぁ…』
『そもそもこれは、何でこうなのかなぁ…』
といった思いがさらに出てきて、次の展開が自然と生まれてきます。
もし紙に書き出すことなく頭で考えているだけだったら、この展開はほぼ無理だと思います。
一つ一つのことに関して言えばかすかに可能性は感じられますが、「書き出されたもの同士の関係性」や「書き出したものの前提」、「言語化した表現の吟味」などは、書き出さないことには始まりません。
ちなみに、このくらいじっくり考える場合には小さな紙では追いつきません。
最低でもA4のコピー用紙くらいの大きさでないと、まず書き出す段階で間に合いません。
書き出した後、矢印で関係性を書いたり、図を描いたり、言い換え表現を書いたり、後から思いついたことをつけ足したり、そういうスペースも必要ですから、ある程度の大きさが必要になってきます。
(日常で他事をやっている時にちょっとメモしたくなった時は、小さなメモ紙や手帳に書くことも多いですが、考える時間を取っている時は、コピー用紙かノートに書くことが多いです。)
どうでしょうか?
紙に書くことの効用が多少は感じられたでしょうか?
「私(=野島)が考え事をする時に、紙が必要」ということだけは、ある程度伝わったと思います。
あくまで私のお話ですが。
人は人、自分は自分
ここでちょっと、今のお話を
「誰か」が「何か」をする時に、「何か」が必要。
と、少し俯瞰して捉えてみてください。
ここに当てはめて考えると、たまたま「誰か」に「私(=野島)」が入って、一つ目の「何か」に「考え事」が入って、二つ目の「何か」に「紙」が入るお話をしたわけですね。
「私(=野島)」が「考え事」をする時に、「紙」が必要。
というお話です。
ただ、だからと言って、他の人にも当てはまるかどうかは分かりませんね。
他の人には他の人のいろんな組み合わせがあります。
何をやるにしてもスマホ一つでできるという人は、それでいいですよね。
それで事足りているわけですから。
こうやって少し俯瞰して捉えることで、日々押し寄せてくる過剰な情報をある程度ふるいにかけることができます。
著書などでしか発信できなかった一昔前と違って、今は誰でも自分の考え(経験談や経験則)をネットで発信できる時代です。
出版物なら信頼できるという訳ではありませんが、ネットはあまりにも手軽なだけに、普遍性(=多くの人にも当てはまること)を考えず、軽い気持ちで発信する人も多いことは心得ておく必要がありそうです。
そういう実情を踏まえると、情報の受け手が各自でふるいにかけるしかありませんので、俯瞰して、一歩引いて、ちょっと冷めた目で吟味する、そんな自分を持ち合わせておくことも大事かもしれません。
“情報”中心か?『問題意識』中心か?
ところで私は、「紙に書くことの効用」について、「どこかの立派な研究で科学的に証明されている」という裏付けがあって、紙を使い始めたわけではありません。
『書かないと考えられないなぁ…』と感じて紙を使うようになって、『小さな紙では書ききれないなぁ…』と不都合を感じて、ある程度の大きさの紙を使うようになっただけです。
先ほどのように
「誰か」が「何か」をする時に、「何か」が必要。
にあてはめて、
「私(=野島)」が「日常での工夫」をする時に、「科学的根拠」が必要?
と俯瞰してみると、必ずしもそうではないですね。
日常での工夫に、なんでもかんでも科学的根拠が必要かと言うと、そんなことはないです。
私たちは情報がそれほど必要でない場面でも求めてしまい、逆に情報に惑わされることも多いと思います。
今のように、あらゆる情報が簡単に手に入る環境にいると、条件反射のように情報を入手しがちです。
その結果、情報を持ちすぎたり情報に縛られたりして、かえって選択につまずくことも出てきます。
多くの情報が助けになるとしても、やはり物事の工夫や創造の芽は、自分自身が日常で遭遇する『不都合』や『問題意識』にあると思います。
それらの認識が薄れていたら、『人は人、自分は自分』と捉えるのも難しいでしょう。
とはいえ、2つの違った音楽を同時に聞き分けるのが難しいように、“情報”に意識を奪われながら、同時に自分の『問題意識』も整理して自覚するというのは、なかなかの難易度です。
そう考えると、“情報”をときどき遮断して、自分の『問題意識』に落ち着いて光を当てる時間が、人によっては必要かもしれません。
「かけ算の足し算」の計算式のような、「紙に書かないと目的を達成できないレベルの考え事」の観点だけでなく、
「一時的に“情報”を遮断して、落ち着いて内省する」という観点でも、紙に書く効用はあるのかもしれませんね。